どんな集団であろうと,その中には悪意が存在し(あるいは悪意をもった者が“含まれ”ていて),状況によってその悪意は狂気を育てるというのが,その考えの要旨なのだけれども,やはり,それは間違っていなかったと確信した.ただし,悪意が悪意であるのは,あくまで観察者(あるいは“僕”)の方からみた場合の“悪意”であって,客観的に見れば“どちらが悪意であるのか”は判断できない.
あるいは,その“悪意”は,我々の未熟な“インタラクション”が招くものなのかもしれない.“全てを語っていいわけではない”.だけれども,それと同時に“思いは口に出さなければ伝わらない”.さらに,“受け取る側は均一ではなく,同時に変化し続けている”.考慮されるべきファクタは膨大だ.数式にあらわすのはかなり難しいだろう.
この社会のなかで“正しい”ことなどひとつも無い.あるいは,正しい答えをひとつだけに絞ることなどできない.ある人は,その“正しさ”とは“常識”であると僕に言った.だけれども,“常識”すら,場所によって,文化によって,時代によって変化していく.
だから,僕は普段の生活の中で,特に他人に対しては“正しさ”を要求することをしない.いや,“だから”ではなく,他人とインタラクトすることを恐れているだけかもしれない.
時に許せないほど“正しくない”他人に出会うことがある.そのたびに煙草の本数は増え,ウイスキィの空瓶が増える.健康には良くないだろう.でも,僕にはそのくらいしかできないのだ.それに,モノゴトはなるようにしかならない.きっと,ここが行き止まりなのだ.
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