2004/12/31

そこなわれてしまったものたちの行方

 もう決定的なところまで来てしまったようにも思う。何かをするということに対して意味を見出すことができない。いや、今までは意味など見出せなくても、“何かをすること”はできていたはずだ。

 無理やり原因を見出そうとしても、それがないことがある。

 疲れしか残っておらず、そして、頭はもうはたらかない。実にばかばかしい。それが結論であり、行方であるように思う。

2004/12/28

考える能力の衰退.

 ここのところ,ずっと文章を書く気力がわかない.僕の思考の断片を書き留めておくというのがこのスペースの存在意義の大部分を占めているのだけれども,書き留めるべきことが存在しない.

 研究室,というより,実験をクビになってから,どうも研究室に顔を出すのがいやになって図書館にこもって試験の参考書を眺めていた.そういった時の,いくつかの瞬間に何かを考えること(参考書の目的とは別のベクトルの考え)は確かにある.でも,そういった場合に浮かんでくる思考というものは,逃避としての思考であって,常にここで書いてきたような,なんらかの憤りに突き動かされた思考といったものではない.だからこそ,そういったものはすぐに消えていってしまう.

 結果的に目の前に残るのは,何の意味もない間違い探しゲームだ.

 そういった状況のなかで,浮かんだ考えの断片をつなぎ合わせると,“いろいろとやってみて,結局ものにならなかった”という,この9ヶ月を過ごしてみての結論になる.

 何度も同じことを書いてきたように思うけれども,努力と結果/あるいは一切の感情を排除した客観的な評価というものは,必ずしも相関関係にあるわけではない.それをわかった上で何かに立ち向かっていけるというのは一つの才能であり,そうでない人間も世の中には多くいる.

 何かをあきらめないということは,そのほかのいくつかの物事をあきらめることだと僕は思う.

 僕は何をあきらめてここにたどり着いたのだろう.

2004/12/19

 我々は時として,取り返しのつかないくらい他人を損なってしまうことがあると聞いた.今日,それは本当にその通りだとわかった.

 そして,いつもの場合と同じように,やはり“一度損なわれてしまったものは,二度と元に戻ることはない”のだとも思う.

 そういった場合,我々はどうするべきなのだろう.そんなことを考えている場合ではないのに,今,切実に答えが知りたい.

>でもそのときの僕にはわかっていなかったのだ.自分がいつか誰かを,とりかえしがつかないくらい深く傷つけるかもしれないということが.人間というのはある場合には,その人間が存在しているというだけで誰かを傷つけてしまうことになるのだ.
(国境の南,太陽の西 / 村上春樹)

2004/12/14

“なんてあっけないんだ.物事というものは”

 サンプルを冷凍庫にしまってしまうと,もう僕にやるべきことは無くなってしまった.現在所属している研究グループは,年末で事務的にも実質的にも解散ということになり,一昨日をもって,僕はS原先生の指揮下に入ることになった.それ自体は既に予測できていたことだし,はじめの方針が“実験を中止しよう”ということであることも,十分考えられることだった.

 そもそも,今僕が携わっている実験系については,展望がほとんど無いという状況で,一応細々とした確認実験を繰り返しながら(いや,そもそもそれ自体があまりうまくはいっていなかった),仮説を検証するためのアプリケーションを模索していた.

 とはいえ,僕程度の頭でなにか有効な手段を思いつくということなどできるはずもなく,そのうちに試行錯誤することもすべて無駄であるように思えてきて,実現しようもない案ばかり考えるだけになっていた.無駄であると思えるというより,実際に無駄であったことも数多く,誰にも報告していない試みの多くは“よかれと思ってやったことがすべて悪い方向の結果を導く”という結果になった.

 そして,今日からある程度合法的なサボタージュ期間に突入.糞みたいな問題集を使って糞みたいな知識を詰め込む日々が始まった.それも,一応“サボタージュ”なわけだから,陰に隠れてこそこそやらないといけない.なんで勉強するのに(本質的な意味でこれは勉強だとはいえないと思うけれども.どちらかというといやがらせのたぐいだ)隠れてやらないといけないんだ.大正時代かよ.

 一問たどるたびに(解くなんてことはできない),よけいなことを考えている.3時間机に向かって進んだのは7問程度だ.壮大な時間つぶし.実験をさぼってクロスワードでもやっているかのような気分だ.いや,クロスワードでもやっていた方がまだましだろう.時間さえかければやる気がなくても結果が得られる.

 そして,これは,やる気がなければ結果が得られない時間つぶしだ.もっとも,やる気があっても結果が得られない可能性もあるのだけれど(僕のような立場の場合50%の確率でうまくいかないらしい).

2004/12/04

あきらめずにやればどんなことでもできるというのは幻想である.

 あるいは一種の甘えであるといえるかもしれない.当然,あきらめなければ終わりはないし,終わりが無い以上,どんなことでもできるという結論にも一応の正当性もある.

 ただ,だれかが以前言っていたように“ハッピーエンドは終わりではない”ということも真実であるのだから,結局のところ,我々はどこかであきらめをつけなければならない.

 そういうことを,僕は十代の後半から,ずっと学んできたように思う.

 今年の第二四半期から第三四半期にかけて僕は,あきらめないということをテーゼとして毎日を過ごそうと心がけてきた.しかし,それによって得られたものは,ちっぽけなプラスミドベクターが一つだけだ.残りのほとんどすべては滅菌されるか,殺菌されて下水管のなかに消えていった.

 なんてむなしいんだろうか.

 むなしいことだということは,わかっている.これからこういった道をたどっていく上で,僕のようなレベルの人間が人並みの幸せを手に入れることも既にあきらめた.自分は,“そういう人間なのだ”ということは,“既に”わかってしまったと思う.そういう形のあきらめを僕はもう,もったつもりだ.

 僕がベクターをつくるだけに費やした時間の数分の一で,すばらしい結果を残せる人間もいる.人間が平等になどできていないというのはそういうことだ.あるいは,人間は平等には収束しない/していかない.

 僕は,そして僕の年代の多くの人間は,その収束の過程にいるか,既に収束の後を生きている.おそらく,もうほとんどは決まり切って,固まってしまっている.このことを簡潔に言い表した言葉を最近目にした.曰く“どんなに人生が長くても,20歳はその人生の折り返し点だ”.

 確かに,その通りだと,思う.

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