あるいは一種の甘えであるといえるかもしれない.当然,あきらめなければ終わりはないし,終わりが無い以上,どんなことでもできるという結論にも一応の正当性もある.
ただ,だれかが以前言っていたように“ハッピーエンドは終わりではない”ということも真実であるのだから,結局のところ,我々はどこかであきらめをつけなければならない.
そういうことを,僕は十代の後半から,ずっと学んできたように思う.
今年の第二四半期から第三四半期にかけて僕は,あきらめないということをテーゼとして毎日を過ごそうと心がけてきた.しかし,それによって得られたものは,ちっぽけなプラスミドベクターが一つだけだ.残りのほとんどすべては滅菌されるか,殺菌されて下水管のなかに消えていった.
なんてむなしいんだろうか.
むなしいことだということは,わかっている.これからこういった道をたどっていく上で,僕のようなレベルの人間が人並みの幸せを手に入れることも既にあきらめた.自分は,“そういう人間なのだ”ということは,“既に”わかってしまったと思う.そういう形のあきらめを僕はもう,もったつもりだ.
僕がベクターをつくるだけに費やした時間の数分の一で,すばらしい結果を残せる人間もいる.人間が平等になどできていないというのはそういうことだ.あるいは,人間は平等には収束しない/していかない.
僕は,そして僕の年代の多くの人間は,その収束の過程にいるか,既に収束の後を生きている.おそらく,もうほとんどは決まり切って,固まってしまっている.このことを簡潔に言い表した言葉を最近目にした.曰く“どんなに人生が長くても,20歳はその人生の折り返し点だ”.
確かに,その通りだと,思う.
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