ここ数年で“一瞬の光”を感じたのは2回ほどしかない.しかも,どれもが実験がらみ.まあ,そんなものかとも思うけれども,なんだかなぁ,とも思う.
ずっと連続していくということは,安定しているということでもあり,変化がないことだともいえる.だれもがたいていのことにずっと連続していくということを求め,最終目的のように考えている.ただ放っておいても,最期の一瞬をこえれば,永遠の連続が待っている.
昨日(だったと思うのだけれど,“連続”の中で日々の区切りは少しずつ消えつつある)“たとえば明日自分が死んだら”ということを何人かで話していた.その中で,“死後にまで残る羞恥心”といった話になった.具体的にいえば,死ぬ前に消去しておきたい物事がいくつかあるということなんだけれども,やはり普通はそういった考え方に至るものなのだろうか.僕は,“自分が死んだ瞬間にこの世界も終わる”と考えているので,あまり,そういう心配はない.いや,決して,暴かれて困る秘密がないということではなく,生きているうちに暴露されて困ることはあっても,死んだ後に暴露されて困ることはないということだ.
自分本位すぎる考え方かもしれない.でも,“死にたい”,あるいは“消えたい”という思考が,この世界に存在する以上,自分の死によって世界が消滅すると考えて差し支えないと思う.どうしようもなく追いつめられた人間がとる,あるいはとってしまう“最後の出口”にそのくらいの救済くらいあっていいような気がする.
最後の出口の手前までいって引き返してきた人間は,あきらめる能力が高まるように思う.あきらめの閾値が下がると言い換えられるかもしれない.誰かにそんなことを言ったような気もするけれど,あきらめること,自分に対するあきらめを持つことは,生きるという果てしなく,限りなく,つらい道のりを楽にしてくれる.それでも,たいていの物事がそうであるように,“そのことによって生じる影響”というものが,当然,ある.
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